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武田信玄と福田寺の縁

武田信玄と当寺の関係については、卒去の地、埋葬の地を含めて
その真偽のほどは判然としないが、当寺に伝えられるところによると以下のとおりである。

『当寺は、かねてより信玄公の外護を受けていたが、、天正元年(1573)野田城攻略のとき、
病におかされた公は、帰国の途次、当寺においてしばし療養の後、卒去された。
天正元年6月26日、甲州太守武田大膳大夫信玄、法性院殿機山玄公大居士、当所尊体を埋む』

周知の通り、信玄公卒去の地については諸説があるが、
手掛かりとなる、いくつかの記述をここで紹介する。(※数字表記など一部改変)

『野田戦記』の記述

『野田戦記』には、次の記述がある。

『保養のためとて野田御引上げの後は、長篠に暫く御滞留あり。
夫より御帰国の沿途、鳳来寺へ御参詣あらんとて、近習の士跡部美作の肩に懸りて御登山あり。

衆徒に御対面の後、礼盤に上がりて静かに薬師の呪を唱え懇祷あり。
終りて瀧本坊に於いて休息し給う。

小食を奉りたけれども進み給わず、医王院仙正を召して勧盆あり、
又僧へも一礼ありて、翌日鳳来寺を下り給い、
参州設楽郡田口村福田寺に数日御逗留相成り、御所労を養い給いが、

御気力次第に衰弱、御療養その効なく、4月12日の夜半、
老雄機山公は53才を一期とし終に永き眠りに入り給いぬ。

翌日帰陣の時、新櫃一個を行列の跡に持たせ、隊伍を整え信濃に行けりという。
この櫃こそ信玄公の死骸なりといい伝えり。』

この記述が本当だとすれば、、当寺で卒去しているが、埋葬はされていないということになる。

『鳳来寺由来』の記述

『鳳来寺由来』には次の記述がある。

『実は天正元年野田城合戦の時、菅沼定盈が城より放つ鉄砲に中り玉い、
保養のため、長篠の城に入り暫し逗留、

それより鳳来寺へ参詣、瀧本坊に入り、仏前に向い薬師を祈り玉い、
それより田口村福田寺という寺にて逝去

(中略)

「甲陽軍鑑」に根羽にて卒去とはそらごとなり』

『信玄公の後胤、村松八右衛門家の祖先よりの口伝(静岡県袋井市堀越)』の情報

こちらでは、次のようなことが伝えられている。

『信玄公は、三河田口福田寺客間において雄途空しく死去した。

最後の側室、長野の小県郡禰津の豪族、禰津元直の女某が、終始側近にあって世話をしていたが、
信玄公の病死により、郷里にも帰れず、正室や一号夫人や子供の居る甲府にも帰れず、
止むなく某女は公の遺髪と、公の目の霊薬6個をたずさえ、

護りの士、付き添え三子を同伴して、天正元年7月頃、
堀越の里に落人として帰農し、宅地内に祠を建てて遺髪を埋葬し、
ひそかに公を祀りつつ三子の成長を待った。

そして、その祠堂を「内寺福田寺」と称した』

『その後、90年余りを経て、ようやく戦国のほとぼり薄らぐのをみて、
その子息三家が協力して寺を建て、「福田寺」と称し、海蔵寺7世光存和尚を開山に迎えた。

しかし、明治初年の廃仏毀釈のため、寺のご朱印は取り上げられ、
明治34年、福田寺の牌座は海蔵寺に引き取られた。』

なお、三家のひとつ、村松家には今日も信玄公が愛用した突眼の霊薬と、
側室の守り刀であった懐刀が現存するといわれている。

武田信玄の終焉地と墓

武田信玄の終焉地についてのは、資料によって食い違う所がある。

まず、逝去の地であるが、武田方の資料「御宿監物長状」では「駒場で死去」
「甲陽軍鑑」には「根羽で死去」とされている。

この食い違いは、よくわからないが、いずれも正しくないことを物語っているのかもしれない。

理由は、信玄が敵地である三河で死去した事を「不名誉」として
明記できなかった所にあると考えられる。

武田信玄と福田寺の縁について」の頁で紹介したさまざまな資料から、
信玄が死去した場所は、療養先でもあった田口の福田寺である事は信憑性が高い。

しかし、埋葬地においては「横旗」が最も信憑性があり、その後再び墓を発掘したという説もある。
そのため、発掘後に荼毘にふした可能性も考えられる。

信玄は、鉄砲による傷が原因となった「鉛毒」と、結核(腹膜炎と言われる)が死因とみられ、
福田寺においてしばし療養の後死去し、その事を秘して信州まで籠に乗せて運んだが、
死後数日を経過した遺体は、配下の信州に入ってからすぐに埋葬せざるを得なかったのではないか、と
考えられる。

したがって、福田寺には遺体をそのまま埋葬したとは考えにくい。
しかし、何かを埋めたとすれば、死後数年を経てから、分骨なり、遺品を埋めたものと思われる。

あるいは、当寺の信玄の墓は、終焉地であるが故に建てられた「供養塔」であるのかも知れない。

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